書籍紹介

「総特集・中井久夫 ~1934-2022~」を読んで

総特集・中井久夫 ~1934-2022~」(現代思想・増刊号。2022刊)を読んで
~「こころのケア」から「回復に進むケア」へ~

〇 「怪人二十面相」という言葉が好きだ。
この総特集には、中井さんを知る24人の筆者が登場する。(編集後記を含めたら25人)
感想を書き始めてから、24人の声を書き出そうと思った。一言、私の感想を添えて。
中井久夫を、怪人24面相の切り口で書くことで、語り継ぐことくらいなら、私にもできそうだと思った。そうしたら、私の到達地点も見えてくるかもしれない……。
この20年ほどの私のテーマは、〈回復するとは、どういうこと?〉だった。
32年前、送迎&対話のボランティアから始めた私は、その人をいかにケアできるかと受け止めて、寄り添って来た。

〇 2022年8月8日、中井久夫さんが亡くなった。精神科医・文筆家・翻訳家。
亡くなった後で次々と、雑誌特集号などが刊行された。
私は「現代思想増刊号・中井久夫」(青土社)を読んだ。
他には──
「文芸別冊・中井久夫~精神科医が残したことばと作法」(河出書房新社)
「中井久夫・精神科治療学掲載著作集~精神科医の眼差し」(星和書店)
「戦争と平和~ある観察~(増補版)」(中井久夫著・人文書院)
「100分de名著・中井久夫スペシャル~こころの医者が遺した歓待のしん言知~」(斉藤環・伊集院光・安部みちこ、NHK出版)

〇 私が初めて読んだ中井さんの本は、「看護のための精神医学」(中井久夫・山口直彦共著、医学書院・2008刊)だった。
この本の「あとがき」に山口直彦さんが、誕生秘話を書いている。
要約すると──
1984年刊の「精神疾患患者の看護」の精神科医担当分の原稿が、元原稿です。その時に大幅にカットした中井さんの原稿を保管していて、1999年にそれを聞きつけた医学書院の白石さんが、“この原稿を蘇生させてユニークな精神医学書を出したい!”となった。
当初の本の原稿と元原稿と新たに執筆された分が、3分1づつで構成されている。
この頃ころは多重人格やPTSDなどは、精神科医の間でもほとんど視野の外にあった。

この本の裏表紙にはこうあります。“看護という職業は、医師よりもはるかに古く、はるかにしっかりとした基盤の上に立っている。医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。病気の診断がつく患者も、思うほど多くない。診断がつかないとき、医師は焦る。焦らないほうがよいとは思うが、やはり、焦る。しかし看護は、診断を越えたものである。「病める人であること」「生きるうえで心身の不自由な人」、看護にとってそれでほとんど十分なのである。実際、医師の治療行為はよく遅れるが、看護は病院に患者が足を踏み入れた、その時からもう始まっている。“

この本に出合う10年ほど前から、精神的な疾患を抱えている人と向き合うことが増えていた私は、〈ケアする人〉としての姿勢にヒントを頂いた。
この本を買って読んだおかげで、2冊の本と出合った。
1冊は、「トラウマの現実に向き合う~ジャッジメントを手放すということ~」(水島広子著・2010刊・岩崎学術出版社)。
新聞の書評欄に載った中井さんのお勧め本でした。
〈ジャッジメントを手放すこと〉に苦労していた私は、しばらく格闘してほぼ手放せるようになってきた。トラウマを抱えた人が現れると、必ずこの本を読みます。
2冊目は、「子どものための精神医学」(滝川一廣著・2017刊・医学書院)。
この本は中井さんが滝川さんに、“子ども向けの精神医学の本を書いてほしい。”と頼んだと聞きました。
ここ数年は小・中・高生と向き合うことが増えて、この本を開くことが増えた。
この本の〈はじめに知っておきたいこと〉には、こう書かれています──
この本は、日々の暮らしの中で子どもたちと直接かかわる、教員・保育士・看護師・心理士はじめ関わる人々や、親たちに、子どもの心の病気や失調、障害を理解したりケアしたりするために役立つことをめざす本です。
3つのことを基本にしています。
① 子どもとは育ちつつあるもの、成長途上の存在である。
② 子どもとは社会の中で生きている存在である。
③ 子どもの育みもケアも、マニュアルどおりにはいかない。
そして、冒頭は〈心をどうとらえるか〉で始まります。
“心とは? という問いに哲学者が答えようとすれば、とてもややこしい問題になる。科学者が答えようとすれば、なかなか扱いきれない問題となる。心とはと問い、答えを探すこと自体、〈こころ〉の働きだから、問う主体と問われる対象が同じで、いわば向き合った二枚の鏡みたいに無限の奥行きをつくっていく。”
⇒ 私は奥行きのある人間になりたいと思ってきた。

◎ 「総特集・中井久夫 ~1934-2022~ 現代思想」(青土社)を読んで。
この臨時増刊号には、20人の報告と、二つの討論(4人)が掲載されています。
その方々の文章で印象に残ったことを、書き出したいと思います。

冒頭の「討議1」は、加藤寛さん(精神医学)と最相葉月(ライター)さんの対談です。
「こころを置き去りにしない社会へ」がテーマ。
身近に見てきたお二人が、中井さんのことを話しています。
最相さんは、中井久夫と河合隼雄にインタビュ―し、「セラピスト」(2014刊・新潮社)という本を書きました。
“中井さんは、人が回復することをとても大切にされている。(数年前)介護施設に入られてからも、秘書・編集者と一緒に近くのステーキ屋さんに行き、私も同席した。
「看護のための精神医学」の中で、誰も病人でありうる。たまたま何かの恵みによって今は病気でないのだという「謙虚さ」が病人とともに生きる人間の常識であると思う。”

加藤さんは、阪神淡路大震災直後に“精神科救護所”を開設し、それを引き継ぐ形で、“兵庫こころのケアセンター”が発足。その開設記念講演「日本社会における外傷性ストレス」の締めくくりで中井さんは、“犠牲者を置き去りにしない、が第一の使命です。さらに、心的外傷を帯びてただ自然治癒力に頼るしかない世界の多くの人々に、どのような貢献ができるのか”と述べています。
これこそが私(加藤)が携わっている意味だと思うので、忘れないようにしたいと。

二つ目の「討議Ⅱ」は、東畑開人さん(臨床心理学)と斉藤環さん(精神科医)の対談です。
「文化と臨床、あるいは中井久夫の原理主義なき継承のために」がテーマです。
対談の最後に二人の継承姿勢が書かれています。
東畑さんは、“原理主義を脱臼させることでカルト化を解毒しているというか、そのあたりが中井久夫の現代性なのかもしれませんね。メンタルヘルスの知における原理主義の不可能性というのは、まさに今の時代の基調にある気がします。”と。
斎藤さんは、“精神医学ではまだ生物学原理主義が強いですが、もうかなり無理が来ている感じです。現在は、中井久夫という治療文化が、中井ファンという緩やかな共同体で共有されていて、その中で皆がてんでに「俺の中井久夫」について語りあっている印象でしょうか。この治療文化としての中井久夫の継承については、今後の課題として考えていきたいと思っています。”と。
〇 山中康裕さん(追悼・中井久夫先生)精神科医。
「ウイルス学者が精神科に転向された。この僕(中井)でも何かやれることはないかと眺めていたら、精神科から退院していく患者さんの姿を見て、ああ、ここなら、と思ったからだよ」
「中井氏がこの領域に来られなかったら、日本や世界の精神医学は、今のこの位置にたどり着いていないからである」
〇 上野千鶴子さん(中井さんは“神の国”へ行ったのか?)社会学。
「中井さんが大学を退職してから何年かして、神戸市郊外の施設に移られた。そこは小規模なグループホームで、認知症になられた夫人が入居していて、共に入居なさった。
面会に行ったら、相変わらずチャーミングな笑顔、明晰な語り口だった」
「最大のショックだったことは、中井さんがカソリックへ改宗されたこと! 人生の最後に神に救いを求めるなんて?」
「治療者とは、ギリギリのところで宗教者との境界に踏みとどまっている人びとではないだろうか。中井さんは大きな“謎”を残して去った」
⇒ 私は晩年を夫人とともにグループホームで過ごすことを、選んだのだと思う……。
“境界に踏みとどまっている人びと”と聞いて、私は出たり入ったりしているのでは? と思った……。
〇 宮地尚子さん(周縁の媒介者=翻訳者)文化精神医学
「中井先生の弟子でもあり、私の仲間であった安克昌さんが2000年になくなられた時の先生の弔辞は本当に鬼気迫る名文でした。(*「時のしずく」中井著にある)
安さんが生きていたら、社会や文化の話と心の内面の話とを有機的につなげることができる書き手になっていただろう……」
⇒ 私はその弔辞を読んでみた。(“君の死は素敵だった。ワンダフルだった……”)
〇 杉林稔さん(中井久夫から学んだこと)精神科医。
「中井の外来診療を見学していて印象に残っているエピソードを一つ。
患者はすでに、いくつかの病院で名医たちの診察を受けてきた。症状は複雑な様相を呈していて、一筋縄ではいかないように見えた。中井はひとしきり話を聞いたのちに、訝しげに、“ひょっとしたら君はもう治っているのかもしれない。”中井は、患者がさまざまな苦痛を体験しているにも関わらず健康な部分がたくさんあることを丁寧に説明した。患者は狐につままれたような顔をしながら、憑き物が取れたような面持ちで帰って行った」
⇒ 私も憑き物が取れた表情の相談者たちと、向かい合ったことがあります。
〇 森川すいめいさん(中井さんに、君はまだまだ勉強不足だね、と言ってもらえたら)
医療法人社団ゆうりん会ゆうりんクリニック。
「中井さんは、こころは、ひとと人の間にあると言った」
「病はひととひとの間にある。置かれた環境によってひとのこころはどのようにもなっていく。中井さんはひとに寄り添い続けた。そしてこうしたほうがよいと見つけた」
〇 大沢真幸さん(リゾームではなくオリズルラン ~社会学者はなぜ中井久夫を読んできたのか~)社会学。
「中井の寛解過程の理論は、破局や革命の後にポジティブな秩序をもたらしうる、ということへの希望を与えてくれる」
「ドゥルーズ・ガタリはリゾームのモデルを提唱した。リゾームはこんがらがった網のような植物の根のこと。中井もまた植物のイメージを提唱した。世に住む患者の世界、そのライフスタイルをオリズルランに喩えている。同心円構造である。オリズルランはただの混沌ではない。それは“基地”にあたるような中心を持つ。基地である根から、葉が外へと、他者たちへと遠心的に飛び出していく。このモデルからは、明確にポジティブな社会のヴィジョンを構築することができる。このイメージが社会学者を魅了する」
◯ 村澤和多里さん(流動の臨床哲学~中井久夫の思想と臨床についての覚書~)臨床心理学。
「著名な業績である統合失調症の“寛解過程論”も、そのポイントは“過程(プロセス)”にある。中井の問いは、“統合失調症とはなにか”ではなく、“どのようなプロセスなのか”にあった」
「中井はこのようなプロセスを単線的なものとしては考えていなかった。単純に見える症状もそれは必ず複雑なプロセスの絡み合いの結果であり、たとえ症状が消えたように見えるとしても、そこに拮抗する力がぶつかり合って強い緊張が生じている場合があることを指摘している」
「リズムを整えていくのは回復のプロセスの助けに過ぎず、最終的にはさまざまなリズムが響きあって、その人固有の音楽を奏でて行けるようになることが望ましい。
また、このような臨床哲学は、統合失調症の理解にのみ寄与するものではない。後期の心的外傷論をはじめ、人間の営み全般についての思想であるといえる」
〇 檜垣立哉さん(予兆を制する予兆 ~中井久夫と臨床について~)哲学。
「“匂い”という“臭覚”における“差分”への鋭い感覚は、そもそも中井の臨床場面において大きな意味を持つだろう」
「そこで中井は、患者の観察者でありながら、自分の“統合失調的性格”を患者に差し向けている。再度述べるが、もちろんこれは危険を伴なう行為でもある。相手に飲み込まれたら、医師自身が狂う。医師は自分が狂わない範囲で、“予兆”を成す患者を“予兆”する。中井がすぐれた臨床家であるのは、精神病を、人間が人間であることの底に、更に言えば生物であることの底に、誰もが持つものととらえながら、それを臨床の場面で十全に発揮することにある」
〇 山森裕毅さん(中井久夫と回復のマイナー科学)哲学/記号論。
「そのため医師として中井が患者や家族にかける言葉は彼らに減速を促すものが多い。離人症ケアの基本姿勢として共に耐え、共に待つことを説いているが、これは中井の臨床の基本姿勢そのものといえるかもしれない。」(*離人症~ 現実感喪失)
「私が何をやってきたのかと言えば、一方では自助グループや精神科デイケの当事者研究や哲学カフェなどの対話活動であり、他方では制度精神療法やオープンダイアローグなどの文献研究である」
「裏を返せば病者の回復過程には精神科医が立ち入ることのできない、つまり随行することのできないルートがあるということである」
「第三のルートの可能性、それは回復回避ルートと呼べるものである。中井は述べる。“治る”ということは、前よりもたとえ見栄えしなくとも、より安定した、余裕の大きい状態に出ることである」
「治療とは山を登ることではなく、加速度がつかないようにしながら、山を下りることなのです。回復とは平凡な里にむかって、足を一歩一歩踏みしめながら滑らないようにしながら下りていくことなのでしょう」
「つまり中井には回復について自然的―生命的回復観と社会的―文化的回復観の二つがあり、これらは連動しているが隙間もあるということである」
〇 松本卓也さん(臨床の臨界期、政治の臨界期 ~中井久夫について~)精神病理学。
「精神病理学者ビンスワンガーは、人間は水平方向と垂直方向という二つの軸の中で世界に棲んでいるのであり、その両輪のバランスが取れている時が、“健康”であるという人間学的均衡論について再考したのである。統合失調症の発病と回復を説明するためのものであった」
「中井は、それまで過度に垂直方向であった精神病理学を、水平方向に開いた人物であった。そしてもう一つの結論は、発病過程ではなく寛解過程に注目した」
「寛解過程とは、“あせり”がとれ、“ゆとり“が回復していく過程のことである」
「幼児期に手のかからない子は、養育者の顔色のちょっとした変化に気づき、それに合わせて微調整をし続けている。子どもの側からすれば、常に周囲に合わせ続けなければいけない、つまり振り回されるということでもある」
「発病過程が始まると、この時期には“そもそも人間とは何か、職業とは何か、結婚とは何か、といった大きな問題を立てやすい。問いの解き方も、問題を一般化し、一般原理を導出し、問題を統合的全体における部分現象あるいは一逆説、つまり一般問題の問題として解こうとする傾向にある」
「“孤立”から“先駆的決意性”にめざめる際には、おそらく中井のいう“ポテンシャルの壁”の突破が必要になる。同様に、“先駆的決意性”から水平方向の関係へと往還するためには、やはりもう一つの“ポテンシャルの壁”の突破が必要になるはずであるが、それはハイデガーにおいては問われないままになっている。ハイデガーは、そしてテロリズムの論理は、嵐が吹き荒れた後、人々がどのように生き延びていくのかをほとんど教えてくれないのである」
「その後のことを十分に考えられるものは少ない。だから、中井のような “翌日の医者”が必要とされたのである」
「それは、彼・彼女らの孤独や不安を水平方向の“共人間的世界”にひらかれたものへと変化させ、それぞれの新たな登攀を可能にしたのである。現代の臨床と政治は、まだここからそれほど遠くには行っていない」
〇 江口重幸さん(中井久夫の“方法への回帰”)精神科医。
「つまり精神医学史や文化精神医学に連なる著作は、“西欧精神医学背景史”あたりから始まる。これは長年温められていた自身の問い、“人類史の中でヨーロッパとは何か”への答えを探し出そうとするものであった。中井はあとでこう記している。“43才まで私がへとへとになって格闘してきた結果が、とにかくこの一冊に凝縮している”」
「“治療文化論”が登場する。従来の文化精神医学で定式化された“普遍症候群”対“文化依存症候群”という二項対立図式に、“個人症候群”という謎めいた概念を加えて詳細に論じ、三項円環構造にすることで、日常的な精神科臨床もまた文化精神医学の一部であることを明らかにした点である」
「さいごにもう一度、“私の日本語雑記”に戻る。柳田国男の晩年の老いについて記した“方法への回帰”に近いものではないかと思われる。引き戻される杭とは、あとがきに記されたように、“ことば”をめぐって網を編む時に何度も通ることになる結節点=結び目なのであろう。それはまさに中井の“方法への回帰”とは言えないであろうか」
〇 松本俊彦さん(中井久夫と依存症治療)精神科医。
「医学生時代の終わりから医者になって四年ほど、同世代の精神科医と同じく私も中井久夫に心酔し、その著作を貪り読んでいた。ところが不本意な人事で、依存症専門病院に赴任して以来、手に取ることはぱったりと途絶えた。決して失望したわけでなく」
「今回、編集部から“中井久夫の依存症治療について執筆”と依頼を受け、……アルコール依存症について、“世に棲む患者”に所収されていた。今回、大慌てで読んでみた」
「中井の二つの文章を読んで気づいたことがある。中井の依存症治療論は、今日、欧州中心に広がる依存症対策の新たな潮流、ハームリダクションの理念と見事に符合しているということだ」
「要するに、中井は、患者を懲らしめて回心を迫るのではなく、少しでも患者への健康被害を最小化する方法を選択する立場をとっている。それから、患者の自尊心に対するハーム(害)を最小化し、治療において無用に患者が傷つくことのないような配慮を推奨している」
「中井にとって、自助グループは回復のための選択肢の一つにすぎないのだ。さらに穿った見方をすれば、依存症治療の孕む暴力性に気づいているように思われる」
「それにしても、中井はこうした独自の依存症治療をいかにして思いついたのだろうか? “対話篇・アルコール症”には、正直に言うとタバコをやめようとして何度も失敗した自分の体験だ、と答えるくだりがある」
「特に出色なのは、再発の危機に関する記述だ。 ①誘惑者の出現。 ②難関の直面。 ③禁煙衝動の高まりについて。筆者は非常に驚いた。覚醒剤依存症治療を目的として開発した依存症集団療法プログラム“SMARPP”のワークブックに書いた言葉とそっくりだからだ」
「中井は、依存症患者の渇望に対して、レポメプロマジンという古い抗精神病薬をごく少量投与することがあったそうだ。中井は、“目の前にあるものに対する自己抑制に伴う苛立ちには、この薬はふしぎな効力を持つ”と解説している」
〇 高原耕平さん(“回復の語彙”を探す~中井久夫と被災地の共同体感情~)臨床哲学。
「阪神・淡路大震災のことを研究しなくてはと決めて大阪大学の臨床哲学研究室に入った。
大学の図書館で最初に手に取ったのが、安克昌の“心の傷を癒すということ”という本。
被災地の風景と、そこにいる人々の苦悩をそっと抱きとめるような、でもその中に著者自らの戸惑いや迷いもいっしょに抱え込んで、それらを急いでろ過して生まれたような文章。そのあと、“災害がほんとうに襲った時”を読んだ」
「さらに統合失調症・心的外傷と並んで中井のテーマであった感染症と国家間戦争が再び現実のものとなってしまった」
「“現実の仕事”と“記憶/歴史の仕事”という分類は、筆者がここで仮に用いたもので、中井にとってはそもそも分類する必要もないものであっただろう。強いてそれを分けて検討したのは、この二つの仕事がいずれも外傷を軸とした共同体感情の関わるものであることを確認したかったからである」
「発災直後の共同体感情それ自体を永続化することは当然不可能であるにしても、その基底にあった可傷性と回復の発見という出来事を活かすために、二つの仕事を二重に進めたのが中井久夫という医師だったのではないか」
「静止した時間の底へ、自分のものではない井戸を下降りていく中井がこの表現を得たのは治療という枠組みがあってこそのことだろう。患者の信頼を得て、彼らの井戸の底へ降りることを引き受けたひとなのだと今更ながら気づく」
「共同体感情とはこうした中間領域があるという認識が共有されているあいだ保たれている連帯に際して感じるものであろう。すると、“回復の語彙”はこういった動かないけれども動いていくという形式的には矛盾した実感のなかで聞こえてくるものなのかもしれない」
〇 牧瀬英幹さん(風景構成法 ~風景になるということ~)精神分析/精神病理学/描画療法。
「吉野山去年の枝折り道かへてまだ見ぬ方の花をたずねむ ~山家集~ 西行法師作。中井は、神戸大学を退官する最終講義を、西行のこの歌を引いて、終えている」
「すなわち、中井は“風景になる”ことに、災害の外傷に限らず精神的な外傷を記憶として引き受けながら、生きていくこと、死んでいくことの根本を見て取っており、それはまさに、西行がその人生を賭して行ったことである」
「まず確認しておきたいのが、中井にとって風景構成法は統合失調症の回復過程を示す里程標であり、治療方法の一つであったということである」
「おわりに。そこから見えてきたのは、中井が風景構成法を創始した目的へと立ち返り、改めて人間と言語との関係からその臨床的意義を問うことに重要性であった。発達障害への注目が集まる中、統合失調症、特に慢性期の統合失調症の治療にあまり目がむけなくなっているように見受けられる。しかし、精神科病院には今もなお、治療を必要とする。そうして患者が多く存在している。中井が残した様々なヒントをもとに、如何にして言語はく奪状況にある患者が再び言語との関係に置いて自らを位置づけること。“風景になる”ことを促し得るのだろうか。
白川の関屋を月の漏る影は人の心を留むるなりけり ~山家集~ 西行法師。
西行は、風景を詠うことを通して生と死の意味を問う歩みを、出羽を旅することから始めた。我々もまた、中井と共に先の問いを模索していくことが今求められているのである」
◯ 小泉義之さん(精神科病棟の始末 ~中井久夫 寛解過程論再訪~)哲学。
「二十世紀後半に精神科医である者は、たいてい二重の任務を持っている。一つは、新しく発生した分裂病を、その初期あるいは前駆期に治療し、できるだけ順調に寛解過程を通過するようにもっていくことである。しかし任務にはもう一つある。それは“慢性分裂病患者”の名のもとに精神科病院に長期入院している人たちをその“慢性分裂状態”から離脱させるという任務である」
「では重要な問題はどう解かれるのであろうか。慢性的状態の“維持”を“強化”する要因は何よりも、人間的要素である。医師―患者の関係である。
例えば、医師が患者に軽くでも会釈をすること、無理難題に対しては率直に困惑の態度を示すこと、医師が患者に生き生きとした関心を抱くこと、治療的環境の整備など、“周知のこと”である」
「精神医学が学としての体裁を振りほどき、精神療法へと変化する過程を、中井はこう書いている。そして妄想内容ではなく、妄想を持つ人間の苦悩に焦点を当てた時、その時だけ妄想患者は自分の気持ちが汲まれたという感じを持つと言ってよいと思う。
こうして癒すにしても、狂える精神を癒すというのではなく、苦しむ心身、狂える心身結合体を癒すという時代、よしんば外来治療でも“外来ホスピタリズム”が生じかねない時代。その限りで、その制約の下で多彩化する凶器の時代への移行がなされたのである」
◯ 北中淳子さん(精神医学の危機と回復~医療人類学から見た中井久夫~)医療人類学。
「現在、精神医学は新たな危機に陥っている。20世紀末には神経科学的精神医学の隆盛は、原因解明と治療への希望をもたらした。1990年代末には、精神障害は脳の問題であり、薬さえ飲めば多くの問題がすべて解決できるかのような楽観的言説もはびこった。
また、長年うつ病啓発に用いられてきた“ヒロトニン仮説”が批判され、大手製薬会社が次々と抗精神薬開発から撤退し、精神科介入を世界に広めることを目的としたグローバルメンタルヘルス運動も十分な成果をもたらさない中で精神医学の前提自体が見直され始めている」
「精神医学がよりクリエイティブで実験的であったこの時期に、ウイルス学から越境してきた中井は、バイオマーカーを持たない精神医学が“通常科学”になりえていないことを最初から見抜いていた」
「医学部移籍前に経験した精神の危機や結核を下地に、統合失調症の回復論が創られたことは知られている。他者の痛みを鋭敏に感じ取り、“その皮膚の中まで入リ込”んだかのような感覚で描き出す中井は、当事者であると同時にその体験を冷静に観察し抽象化する科学者でもあった」
「言葉やコメント、そして問いただすような視線とは放射能と同じで、一定を越えると耐えられなくなる“被ばく量”があることをその詩人的感性で感じ取った。このような洞察は、現在のトラウマ臨床を含む地域精神医療においてもそのまま生かせるだろう」
「中井は、精神医学に入った当初から、“徴候的にものがひしめく裂け目”を日常に感じとが過ぎ去るのをじっと待つことで精神の均衡を取り戻す自己治癒力のプロセスを明らかにしていた」
「彼の生気論・生態学を通じて立体的に浮かび上がってくる病をみて、『統合失調症は
“脳”だけの疾患だと思っていたが、脳を含めた全身疾患ということなのだろうかとい
ことを感じたのを覚えている』という医師は少なくないだろう。時代が一巡したかのような印象さえある中、今こそ中井の精神科治療学が切実に求められている」
◯ 上尾真道さん(治療の風景の構成 ~二十世紀精神医療史の中の中井久夫~)精神分析思想史。
「繊細な線と柔らかな色彩とからなるこの絵は、“いろいろずきん”に添えられたものの一つである。精神医療史家として知られるアンリ・エランベルジュの創作童話を、中井が日本語にした絵本だ。そこに中井は手ずから挿話を提供した。いわく、“挿話はおもに主人公の目から見たように描こうとしました。精神科医が相手の身になろうとつとめるのと同じでしょうか”
「ただしその旅はいつまでも続けられはしない。その物語が終わった次のページを開くとそこには見開きいっぱいにひとつの景色が水彩で描かれている。もはやその絵は、医師が病者の視線をなぞるようにして描かれてはいない。森から平野に向けて、帰路という新たな旅立ちの背中が見送られているのだ。あるいはそうだからこそ、病者との別れを望むからこそ、治療者はこの森との境に留まり続ける。曙光かがやくその絵には、そうした治療状況の終わりの風景として、希望と孤独が封じられているように思われる」
◯ 美馬達哉さん(失われた抵抗を求めて~楡林達夫を読む~)医療社会学/神経科学。
「中井には、精神科医・中井久夫以外にもペンネームによる論文がいくつか存在している」
「1960年代、良心的若手医師のバイブルは、“日本の医者”(楡林達夫著)であった」
「楡林は、もし、医療は社会の変革によってしか根本的に変化することはないとしても、“そのときまで医療の中でどういうことをつみかさねてゆくか”が問われなければならいというのだ。そのために、抵抗的医師は医局の中にとどまり続ける“黒い医師”となる必要がある」
「“幸福な科学技術”としての医学というとらえ方は、精神科医療を自ら担うようになった中井が重視した治療や寛解や回復という視点“医師患者関係における治療学”と連続しているとみてよいだろう。楡林にとって孤独で絶望的な状況である医学界の内部で、現状を相対化し、医局講座制を超越できる価値や原理となりえたのは、治療学としての医学の可能性への“幸福な”信頼だった」
「中井といえば精神科治療の達人である医師サリヴァンの紹介者として名高い。だが、残念ながら、楡林のいう“抵抗的医師”の可能性の中心は、よきメチエ(職業)の“限られた力”ではないはずである。口はばったい言い方になるが、医療の現状をも治療学をも相対化する原点となりうるのは、看護やケアという身振りの持つ普遍性なのだ。
楡林/中井のケースは、現代において、そしていかなる時代においても、“幸福な”治療学への誘惑に抗することがいかに困難であるかを、私たちに教えてくれるだろう」
◯ 中村明さん(“私の日本語雑記”寸感)日本語文体論。
「この中井著“私の日本語雑記”を読むと、いきなりインドネシア語が語られ、ページをめくっていくと英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語……それに中国語、朝鮮語、琉球語、ゴート語、ハワイ語、ラテン語、ヘブライ語、古典ギリシャ語、トルコ支配下のギリシャ語、ケルト語などという、驚くべき多彩な言語名が次から次へと飛び出して、絢爛たる世界をくりひろげる。こういう本の著者が言語学者ではなく、なんと精神病理学の教授であり、臨床医でもあるというのだから、びっくり仰天だ」
「この本の若干の読後の寸感を添えるに留めたい。(*以下、簡単に書きます)
第1章“間投詞から始める”(“あのう”という語形の表現価値について説く)
第2章“センテンスを終える難しさ”(日本語は接続を楽しむ言語の最右翼)
第4章“動詞の活用形を考えてみる”(日本語の連用形が果たす文学的な効果)
第6章“生き残る言語”(IT用語に至っては遂に翻訳の試みを放棄し、原語で)
第12章“訳詩という過程”(書いた当人の意図を理解し、自然な日本語で表現)
第13章“訳詞における緊張と戸惑い”(現実には表現手段は声や文字だけではない)
第16章“言語と文学の起源について”(ヒトが人にとなるまでの歴史を推測する)
第18章“日本語文を書くための古いノートから”(日本語の文章の書き方に刺激と)
「それはさておき、中井の指導は極めて具体的で、効果を上げる戦術的な要請を披露する」
「音読してつっかえるのは、考えの流れも淀んでいるから、文勢に応じて全文を書き直す。読んで気障と感じられるのは、“異物排除作用”が起こっているのだ。いずれも示唆的な言及である」
「朝日新聞に寄せた精神科医の斉藤環の追悼文によれば、理論と臨床、思想と実践、鳥瞰と虫瞰が奇跡的に両立できた人物であり、その文章は科学と詩の共鳴だったという。
この現代の叡智との別れを惜しむとともに、難しいことをやさしく書くという、生きた教訓を胸にきざんで、この寸感をさらりと結ぼう」
◯ 伊藤亜紗さん(地中海への往診 ~中井久夫とヴァレリー~)美学。
「最初に中井先生の知ったのは、学部二年生のとき、参加したゼミで。フランスの詩人ポール・ヴァレリーの建築と音楽に関する対話篇を読んでいた。その内容に文字通りハマってしまい、卒論・修論・博論とヴァレリー研究をすることに」
「阪神・淡路大震災の際にも、約3か月後に開催されたシンポジュームで中井先生はこう語っている。『震災後さっぱり本が読めず、ヴァレリーばかり読んでいる。多くの精神医学書が“屁”のような気がする』」
「私がヴァレリーを危機から切り離したいと考えた最も大きな要因は、私が美学の対象としてヴァレリーを研究しようとしていたからである」
「それゆえ、当時の私にとって、“危機の語り手”たる中井先生のお名前は、あまり好ましいとは映っていなかった」
「私は、こうした“精神分析的”解釈なんかにヴァレリーを回収されてたまるか、と思っていた。作品は、“昇華の産物”などではなく、“読者の身体的諸機能を開拓するために組み立てられた装置”なのだ。私はほとんど中井的磁場からヴァレリーを救い出すために、博士論文でそう主張した」
「ヴァレリー研究を離れ、障害や病の当事者のインタビュー調査をするようになってから、中井先生との二度目の出会いが待っていた。今度は精神科医としての出会いだった。
それは何と言うか、腰の力が抜けてその場に座り込んでしまうような出会いだった。
そして自分が根本的な誤解をしていたことに気づいた。中井先生が精神科医として相手にしている“こころ”とは何なのか。ふだん何を見ていらっしゃるのか。その内容について私は完全に思い違いをしていた。私がヴァレリー越しにそうだと思い込んでいた“こころ”とは、デカルトが身体と対置させたそれであり、フロイトが自我や超自我の劇場として論じたそれである。しかし、中井先生が日ごろ相手にしている“こころ”とは、“私の内面”のような人格をもつ求心的な何かではなく、むしろわたしのまわりにある人物や物との関係があって初めて宿る何かだったのである。“こころという言葉をできるだけ使わないようにしてきた”と断りながら、中井先生はこう説明している。
“こころ”というのはその人を取り巻く(治療者を含む)無数の人々や物との交流の中で息づいているものだと思うんです。
現在かかわっている人々の中ばかりでなくて、むしろ昔かかわってきた人々との関係のなかにある場合がありますね」
「中井先生が、“ヴァレリーにとって精神は海。それも地中海である”と言うとき、ヴァレリーのこころは子どものころに見たはずの、“林立する帆船”という中井先生の実感があることを忘れてはなるまい」
「その人が、“なんだろう?と考えるようにすることが、精神療法なのである”と。
中井先生にはぜひ、この町の高台に眠るヴァレリーに問いかけてほしい。
何度も繰り返してきた“危機”の話ではなく、誰もまだヴァレリーに問いかけたことがないようなことを」
⇒ 伊藤さんは4.2信濃毎日新聞に連載を始めました。〈思索のノート、体に追いつく〉です。毎月第1日曜日に掲載されます。

(田中敏夫記)