「依存症と人類」~われわれはアルコール・薬物と共存できるのか~

(カール・エリック・フィシャー著・みすず書房刊・2023年)を読んで
“私は依存症の専門医になろうと決心した。心理療法と薬物療法を学びながら、同時に自身の治療やミーティングをこなし、自分にとって回復が何を意味するかを解明しようとしていた“(イントロ)

この本を知ったのは、2023年末の新聞書評欄に、斉藤環さんが推薦の言葉を書いてたからです。
「回復が自分にとって何を意味するのか」に、魅かれてこの本を開いた。
送迎と話し相手のボランティアを始めてから35年。何人かの依存症の人と出会いました。今も…。
初めての出会いは母子家庭の息子さんがアルコール依存で、母親はお酒を買ってきていました。精神科に入院した時は見舞いに行ったのですが、しばらくして亡くなりました。母親に、“今までと違って、今回は調子がおかしい”と言ったのが最後の言葉。彼とじっくり話す機会はありませんでした。
著者のフィシャー氏は、両親がアルコール依存症で、依存症専門の精神科医で、自らがアルコールなどの依存症で入院し、回復しつつある当事者です。320ページの中で彼が10数年の格闘を赤裸々に書いているところを、抜き出しますのでご覧ください。(*筆者の年齢は推定で40才くらい)

「私は27才。精神科の新米医師として研修中だった私が、なぜニューヨークのベルビュー病院の患者になったのかを理解しようとしていた。翌日、医療チームの全メンバーと会い、飲酒歴を洗いざらい打ち明けた。アルコール依存症の両親の元で育ち、絶対 両親のようにはならないと心に誓った。
私もアルコール依存症ではないかと自覚しつつあります。そして私は泣き崩れた。」
「依存症の歴史を研究するうち、広い視野を持つ学者たちが、問題を解明しようとして古代哲学に目を向け、その文化的背景から切り離すことが不可能であるかを証明した。」
「しかし、インターンとしての1年は絶え間ないプレッシャーと解決できない問題に追い立てられ、酒量が増え、希望を失いかけていた。糖尿病による足の壊疽、不健康な食生活による心臓の動脈閉そく、アルコールによる食堂の裂傷、ボロボロの膵臓、命に関わる離脱症状。問題解決は不可能であるように思え
私は誰の助けにもなっていないと感じた。私はなにもかも終わらせたかった。本を読むのを止めた。私は気にかけるのを止めた。決められた時間さえ守らなくなった。」
「メディカルスクール卒業後の長い1年を終え、私は正式に精神科の研修医として最初のローテーションを開始した。数週間して、プログラム・ディレクターが直ちに私に会いたいと言ってきた。
自分が無責任で大人げなかったことを認め、謝罪し、改善に取り組んでいると話した。しかしそうすることで、むしろ彼らに縛られることになるとは気づいていなかった。ディレクターは、“何であれ、問題があれば助けを求めなさい”と言った。実際に助けを求める考えは一切頭になかった。」
「ディレクターからの疑似介入の後、以前より慎重に行動していたが、正直な所どう振舞えばいいのかよくわからなかった。いつの間にか私はまた酒を飲むようになっていた。ただアデロールがあればやり過ごせることを学んだ。もう一錠飲めば立ち直れる。危なっかしい綱渡りのような日々だった。」
「最終的には、アデロールの混合アンフエタミンが最後の一押しをし、私を完全な崩壊に追い込んだ。
私は簡単に麻薬を入手できた。特権を持つ白人使用者の権利だった。最初は、すごく愉快な気分だった。自我が完全に消滅し、澄んだ明晰さで緊迫感のある神秘体験をした。そして妄想が始まる。麻薬のせいで躁病になったのかと思うこともあったが、様々な考えや感情、恐怖が一挙に押し寄せて来て、現実を認識できなくなった。正気と狂気の狭間にいるような、複数の状態が私に無秩序な心を駆け巡っている感じがしていた。」
「テーザー銃で撃った後、ニューヨーク市警は私をアパートから強制的に退去させた。情緒障がいのある人にとって望ましい目的地とされるベルビュー病院の精神科救急処置室に連れていかれた。抗精神病薬が効いてくると、妄想が薄れ、私の心は澄んできた。
私はリハビリ施設まで連れていかれた。翌朝事務所で“アルコホーリクス・アノニマス”(通称 AA)の1冊を渡された。翌日、サマーズ博士のオフィスに呼ばれ、インテーク面接を受けた。もう一度聞かれた。“マリファナ?メタンヘタミン?PCP?きっと他にもやっていたはずだ。私は医者だ。依存症医学の舟に乗っているが、本当の専門はトラブルだ。これから長い間ここにいなければならない。舟に乗りたまえ。それがきみの命を救うかもしれない。”
「リハビリ施設での数日間、グループセラピー、スキルワークシートやコラージュ作成などに参加し、親身になって相談に乗ってくれる人たちと話しながら、私はまだ受容と否認の間で引き裂かれているように感じていた。ひどく気分にむらがあり、ようやく一人になると、躁病を発症して以来押し殺してきた。圧倒的な恐怖にとらわれ、ベッドに顔をうずめて泣いた。自分が深刻な問題を抱えていることを認め始めていた。薬物やアルコールの摂取量をごまかしてきたが、それを止めようと決意した。」
「リハビリプログラムを始めて間もないころに母が訪ねてきた。母は私がアルコール依存症であるという考えを嫌い、拒否していたし、AAも嫌悪していた。母は諦めたように私を見つめ、“戦いのときは終わったのよ。あなたは自分を解き放ち、成り行きに任せればいい”と言った。身体の中で安堵のようなものが広がり、母の言う通りかもしれないと思い始めていた。」
「リハビリを始めて数週間たつと、医師や医療関係者からなる私たちのグループが、一つのコミュニティのように感じられた。一体感が生まれていた。」
「しかし、一般にハームリダクションと呼ばれる別の考え方があり、薬物問題に対して全く異なる
パラダイムを提供する。これは、激動の1980年代にルーツがあるが、元々は別のエピデミックに対応するものであった。」(*ハームリダクション~薬物使用の新しい考え方。害を減少させ、安全を確保)
「2月のある日、リハビリ施設で2か月を過ごした私は、バスターミナルに降り立った。72時間先までのすべての行動のスケジュール表が入ったバッグを抱えている。これは私にとっての大きな一歩で、自分の面倒を見ることができるのかという退院前のテストだった。」
「それは、健全な私の存在にとりついた別の存在なのか?それとも私の自我が障害を含んでいるのか?たとえ二度と飲んだり使用したりしなくても、一生私から離れないのか?研究することで、今の自分が何者で、これからどんな人間になるのかを理解するのに役立つのかを知りたかった。」
「もちろん、これは現実的な判断でもあった。医師健康保健プログラムに参加していた私は、正直で居たかったし、隠し事をして怯えながら生きるのは嫌だった。そのうち、自分は飲まない方がいい人間だ
と思うようになった。少なくとも今日は。依存症は、物質が脳に作用した結果ではなく、動機付け・報酬・自己調整のおける人間の一般的な問題の一面に過ぎないことが明らかになってきている。」
「ある意味、私たちは、大切だったすべてを失い、苦しみを経験し、そこから自由になりたいと思った。
“リグ・ヴェーダ”の登場するあの賭博師まで遡れる仲間意識を共有しているのかもしれない。」
「回復して約1年が過ぎ、患者としての日々はしだいに過去のものになりつつあった。もちろん、医師保健プログラムではまだまだやるべきことがたくさんあった。」 (*リグ・ヴェーダ~古代インドの聖典)
「それでも、伝統的な医療の枠組みを超えて、命を救うだけでなく、患者の幸福と活躍を促す何らかの要素が必要になることが多い。依存症という難問に対処するには、治療的対応だけでは十分ではない。
何世紀にもわたって、人々はさらなる高みを目指している。それは、近年“回復”と呼ばれるものだ。
私自身が回復し始めた頃、とくに問題はなかったが、気持ちが落ち着かず、孤独で・・・。酒を飲むよりずっとましだが、それでも気分は晴れなかった。こうした行動には、何か危険なほどの既視感を覚えた。
私はまだ私の最高の直感に逆らっていたのだ。」
「“お前は失敗している”という声から解放されるようになったのは、この本を書き始め、様々な回復の経験を学ぶようになってからだった。回復とは完全な断薬であり、かつ12ステッププログラムに
何らかの形で参加することだとする考え方が支配的だった。」
「あれから40年近く経った今、変化はまだ進行中だが、とくに回復のためのコミュニティが、回復の包括的な定義を受け容れつつあることで弾みをつけている。
回復の広義の定義~生きるための機能と目的が着実に改善すること~が実現されれば、物質問題を抱えるほとんどの人々は回復し、ほとんどの人はそのために医学的な支援を必要としない。」
「何年も経ったが、私は酒を飲んでいない。監視プログラムは今も嫌だが、イライラが減って、数年後にこれを成功裏に終えられることは間違いない。」
「今や、怒りが私の依存症のように感じられた。これまで何度もそうしてきたように、身近にいる女性に怒りをぶつけている。私は不安になった。知り合いに連絡し、セラピストはどうやら、私が以前からうさんくさいし軽薄だと嫌っていた “インナー・チャイルド(内なる子ども)” を探っていく話になりそうだ。
ところが、気づいたら私は泣き出していた。それも本気で泣いていた。セッションを重ねるうちに、本当に変化を感じるようになっていた。」
「患者、回復中の仲間たち、そして自分自身の中に何度も繰り返し見てきたのは、回復には終点がないと言うことだ。実際、それは通常の医学における “寛解” 時点を超えた、進行中の変化や成長の過程について回る状況なのだ。」
「うつ病治療のためにDBSを開発したヘレン・メイバーグは、“これがそう、これが人生なのです”と答えたという。治療は、その人が現実の生活に取り組むために十分な程度、うつ病の症状を和らげた。
しかし、うつ病や薬物使用に代わる何かを見つけ出すことは、患者自身の責任なのだ。」
「その後の努力が必要であることを忘れてはならない。私たちはなおも意志と主体性をもった人間であり、この短い人生の中で何に価値を置くかを決断する必要がある。私たちは更に成長し変化する必要がある。依存症と共に歩むこと。なぜならそれは私たちの一部だから。」
「近年、新たな依存症がまん延する中で、私たちは融合のためのめったにない貴重な機会に遭遇している。私は、回復をあらゆる種類の前向きな変化として包括的に定義することで団結できるのではないかと期待している。依存症はごく普通のことである。依存症が人間性の一部であるなら、それは解決すべき問題ではない。私たちは依存症をなくすことはできないが、それとうまくつきあう方法を見つける必要がある。」

◎ 感想
・ 「アルコール・薬物と共存できるか?」という問い~
答えは、できる。依存症とうまく付き合う方法を見つけることで。
・ 「自分にとって回復とは、何も意味するのか?」という問い~
依存症という難問に対処するには、治療的対応だけでは十分ではない。何世紀にもわたって人々はさらなる高みを目指してきた。それは、「回復」と呼ばれるものだ。
回復の広範な定義、生きるための機能と目的が着実の改善が実現されれば、物質問題を抱える殆どの人は回復し、医療的な支援を必要としない。
精神科の研修を終えた後、近くの仏教センターに定期的に通うことにした。「安堵感」を覚えた。それは大地と、自分よりも大きな何かに抱かれているという感覚で、苦痛を理解し、目的を持って生きていくことを助けてくれた。回復のための確かな地盤をえた。
回復には終点がない。人はどうやって変わるのだろう?その答えは、回復中の人の数だけある。キーとなるのは、やってみること。
依存症からの回復を支える具体的な要因として、物的資源・人的資源・社会的資源、「リカバリーキャピタル」がある。
回復する機会を権利とみなし、私たちは依存症という深遠で普遍的な課題に取り組むことで結束している。
・ 「インナー・チャイルド」を探りそうなセラピストを嫌っていたという話を聞いて、両親がアルコール依存症なので、最初から焦点を当てるべきではないか、と思った。
両親が安心基地になっているとは思えなかったから。
思春期を潜り抜けて大人になっていくプロセスが、壊れていたのではないか・・・。
・ “こうしている間も母は酒を飲んでいる。年を取って体が弱っても飲み続け、飲んではつぶれる。死にたくない、死ぬのが怖い、孫と離れたくないと言いながらも・・・“
その母が、筆者がリハビリプログラムを始めたころ訪ねて来て、“戦いのときは終わったのよ。あなたは自分を解き放ち、成り行きに任せればいい”と言った!
両親のようにはならないと固く誓った筆者が、ここで回復へと舵を切った!と感じた。
・ 医学的支援を必要としなくなった人が、うつ病や薬物使用に代わる、価値観を見つけるのは本人の仕事なのだ。本人の変化と成長が必要だ。
・ ハームリダクションという柔軟な捉え方が、いいのではないかと思った。

(田中敏夫記)


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