アンチ・アンチェイジングの思想~ 弱いまま尊厳をもって生き切るための思想。

〇 「ソーシャルワーカーは、老いて、熟成する」
100才のおふくろとの会話です。
年明け、母を有料老人ホームの個室に訪ねた。正月らしい、南天飾りがあった。
“テレビの横に置いている南天の正月飾り。えらい気が利いて、置いてくれた。誰がくれたかな?”
帰り際、スタッフに報告すると、“その南天飾りは、みんなで作りました。15日にホームのみんなで燃やします。どんど焼き。” 母が、“なにも困っていることはナシ。うれしいこともないけど” と言うので、私は “毎週、息子が面会に来てくれるのが嬉しいよね!”。(母絶句)
そして、持ってきた一口羊羹を、スタッフの所へ行ってスプーンを借りてきて、ペロッと食べた。 ソーシャルワーカーは、老いて熟成していくので、アンチ・アンチェイニングで行けそうです。(笑)
〇 「最後を笑顔で看取る」
著者は自分らしい死と、習俗にしたがって葬送された死を、比べて言う。(p.245)
“死を受け止める家族も共同体もなくなったからこそ、「自分らしい死」が登場する。前近代社会では、死に行く人は自分の死に方を問われることなどなかった。習俗のままに取り扱われ、習俗にしたがって葬送された” と。 ”“すべての生き物の無事な死こそが、次の無事な時代を造る”(内山節・哲学者)
問われることなぞなかった? 習俗?
“前近代”の死は、“もう、逝ってもいいよ。それは生き抜いた人々への最大の敬意と言うべきだろう”(介護職・リッチャ ー美津子の言葉“ (p.279)という 「笑顔の死(最後)」 だったと思う。
つまり習俗という言葉では、前近代の人々の精神性を表現できないと思う。 私も父の最後の5日間を看取り、“ありがとう” を父に贈った。
〇 「生き切って、死ぬ」
1966年、サルトルとボーヴォワールが来日した。 私はその講演を聞きに行き、著書も読んだが、実存主義は
よくわからなった記憶がある。大学1年生。
それから1年後、私は “生きる・死ぬ” を1年間、考えた。 出た答えは、シンプルで、“生きる、そして生き切って死ぬ” だった。
※以下は、主に本書からの引用です。
「老いは文明のスキャンダルである」
これはボーヴォワールが62才の時に書いた「老い」の中の一文です。 著者(上野)は今73才。
“頭をぶん殴られるような思いがした(30代)が、読んだのはこのコロナ下だった。”
“スキャンダルとは以下のようなものだ。それは発展と豊富という神話の背後にかくれて、老人をまるで非人
(パリア)のように扱う” (p.3)
“老いが惨めなのではない。老いを惨めにしているのは、文明の方なのだ” (p.9)
“高齢者たちの不幸は、我々がその中で生きている搾取の体制を白日の下にさらす。だからこそ、老いは文明の
スキャンダルなのだ。 そして、文明という物質文化を含む生活様式の総体だ。老いをめぐる問いは、文明のパラダイム的(*支配的な考え方からの)転換を要求している。私がボーヴォワールから受け取ったメッセージだ“(p.11) スキャンダルから脱するには、死ぬまでが修行という精神性が必要だ。
「ボーヴォワールの提言と著者の提言」
“あらゆる年齢の者が住む集団住宅の中に、独立してはいるがいくつかの他の年齢の者と共通の施設を含む老人住宅をつくることが、いっそう望ましいであろう” (p.186)
“現に福祉先進国である北欧はすでに脱施設化に向かっている。“もっと施設を” という日本の高齢者福祉は、
世界の潮流に逆行したものだ。“ (p.187)
二人のフエミニストは、孤立ではなく、多様性とリスペクトを求めた。
「サルトルの最後。ボーヴォワールの最後」
ボーヴォワールがサルトルの最晩年を書いている。(「別れの儀式」1983刊・人文書院)
“失明し、滑舌もはっきりしなくなり、聞き取りも難しくなり、見当違いのことを口走るようになったサルトルの老残の姿を、あまりにも赤裸々に描いたので、サルトルファンから抗議を受けた“ と。
ボーヴォワールの晩年に寄り添ったのはランズマンだった。集中治療室で延命治療を受けているボーヴォワールを見て、“彼女が死ぬためにはチューブを外すだけでよかった”(p.243)と記録した。
人は生きてきたように、死んでいくと思う・・・。
そして今、「友達近居」「大人の女子寮・男子寮」に活路を見出す人達が出始めている・・・。
「自立 independence と 自律 autonomy の違い」
“高齢者のケアは「介護」と訳されるが、障害者のケアは、「介助」と訳語。助けはほしいが、保護はいらない、あくまで自分の人生は自分で決めるという立場からである。”(p.300)
“生きている限り、“尊厳死”ではなく、“尊厳生”を。介護のプロ、高口光子の言葉だ“ (p.301)
ソーシャルワークをしていても、最後は 「当事者主権」なのです。
“非対称なケア関係。 ケアを相互的な”愛の行為“と見なす人が忘れていることがある。それは非対称な権力関係のもとで実践されるコミュニケーションだという事実である“ (p.288)
“セックスの快感も同じであろう。完全に自己コントロール可能な快楽がけっして、“エクスタシー” には至らないように、他者は常に謎であり、予測を超える神秘である。性的絶頂を “脱自 ecstasy ” と名づけた古代ギリシャ人の知恵に震撼する“ (p.288)
ソーシャルワークをしていても、相手を100% 理解するのは無理だと実感します。
脱自 ecstasy とは、素晴らしい表現だと思う。
「相互依存を認めることが解放」(上野)
アメリカのフェミニスト、ハイデイ・ハートマンは言う。 “一般的な法則として、家父長制と資本制のもとにおける男性の位置は、配慮、分かち合い、成長などに対する人間的な欲求を認知することを阻み、こうして欲求を格差のない関係の中で、家父長的でない社会で実現するという能力を奪っている。 私たちが作り上げなければならない社会とは、相互依存を認めることが恥ではなく解放であるような社会である” (p.299)
どんな社会でしょうか? お互いをリスペクトする社会・・・。
「ボーヴォワールの宿題」(p.261)
“ボーヴォワールは老いの暗黒面を、容赦なく書いた。サルトルの老いの過程に長期にわたって伴走した。彼女の曇りのない目は、老いのリアルを粉飾の美化もせずに暴く。そして苛烈なまなざしに私たちはふるえあがる“
私も震えあがりながら、初めて本を読みました!
“ボーヴォワールは女の老いを生き抜いて死んだ。
そして老いを 「文明のスキャンダル」 と呼んで、わたしたちに「宿題」を残した。
その「宿題」に、わたしの試みはいくらかでも答えることができただろうか? 読者の判定を仰ぎたい“(p.302)
みんなで、いろいろな答えを出せばいいと思う。
〇 著者・上野千鶴子さんは、「宿題」に答えを出している、と思う。
“1990年、上野は「家父長制と資本制」(岩波現代文庫刊)を書いた。 私は市場が外部に依存していること、市場がそれを忘れているだけだということを暴いた。“成長の限界”はその依存を赤裸々に示す。個人も老いる。
文明も老いる。私たちはそろそろ19世紀的な“成長の神話”から脱するべきなのだ。“ (p.298)
“後期高齢者になったわたし自身の 老い論 を展開したいという知的な関心が育っていった” (あとがき)
と言うべきかもしれませんが・・・(笑)
老いは、成熟のバロメーター。 私も答えを求めて、死ぬまで感性を研ぎすませたい。
2021.7 『nhk 100分で名著 ~「老い」を読む・上野千鶴子著』のテキストを読もうと思う。
